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木食応其花押
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安土桃山時代の真言宗の僧で、出家前は六角氏に仕える武将、出家後は外交僧・勧進僧・連歌学者として活動した。法名(法諱)を応其、字を順良、房号を深覚と云い、深覚坊応其と称す。木食は木食行を修めた者への称で、木食応其は通称
1573年に38歳で高野山において出家し、宝性院の勢誉から受戒、名を応其と改めた。
高野山入山のおり、十穀を絶つ木食行を行うことを発願している
天下人から厚遇を受けた政遍からも戒を受け、仁和寺宮仁助法親王より三部の大法を受け、阿闍梨にのぼったとされている。1582年に織田信長が高野山攻撃を行った際には、応其らは小田原弥勒堂にこもり、太元法を修して信長の調伏に当たったとされるその最中信長は本能寺の変で死亡し、高野山攻撃は中止された。
1585年豊臣秀吉は根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた。この際応其は南院宥全、遍照尊院快言とともに高野山使僧として派遣され、秀吉からの降伏条件の書を受け取った。 これ以降、秀吉との間柄は急速に進展する。
秀吉に協力して高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興にあたった。1590年には高野山内に興山寺 を開基した。その際、秀吉が後陽成天皇に奏請して勅額が掲げられるとともに、興山上人の号を賜った。その他にも応其は全国を行脚し寺社の勧進につとめ、造営に携わった寺や塔は97にのぼるとされる。応其が手がけた寺社造営や灌漑水利施設の改修などが記され、行基菩薩の再来であると述べられている。

1608年10月1日に入定した。行年73歳。高野山奥の院に程近い場所に廟所がある。


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