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田沼意次花押
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江戸時代中期の旗本、のち大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。
1719年7月27日、紀州藩士から旗本になった田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。
10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。
都市部の治安の悪化、一揆・打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、1784年に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺された[ことを契機とし、権勢が衰え始める。
1786年8月25日、将軍家治が死去。死の直前から家治の勘気を被ったとしてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例に失脚するが、この動きには反田沼派や一橋家の徳川治済の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。閏10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられたのだった。その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。
1788年6月24日、江戸で死去。享年70。
賄賂政治家という悪評は反対派によって政治的に作られていったとしている
老中としての政策の進歩性などについて大きく評価されており、開明的政治家としての再評価も高まっている
相良藩主としての田沼に関しては街道や港の拡張、火事対策として相良で起こった大火の後、藁葺きの家はことごとく瓦葺にするよう令を発している、殖産興業などきわめて正統的で当を得た施政を行っている。


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